人気ブログランキング | 話題のタグを見る

2015年を想う

1年前の今を想う。
激動の2015年だった。
平安にある今を想う。

長い文章になりますが
2015年にあったこと・・・と
文にまとめてみました。

  * * * * * * * *


2014年クリスマス。夫の定年の記念旅行中、奈良にて最後の晩「背中の痛み」に苦しみ始める。
夫とのこれからの生活について希望に満ちて語り合った後だけに、夫の苦しむ声を聞きながら「胸騒ぎ」を覚えて眠れない夜を過ごした。翌日、呻き続ける夫と共に新幹線で帰宅。

週明けを待って近くの整形外科を受診。何の見立てもなく、レントゲンとって痛み止めをもらう。本人は圧迫骨折を疑うが、その翌日から高熱。高熱と頭痛と背中の痛みにのたうち回る。翌日12/30年末かろうじて診察していた前出の病院に駆け込む。インフルエンザを疑われ検査するが、陰性。インフルエンザでなかったことで絶望感に襲われる。背中が痛くて待合室で座っていることもできず、簡易なベッドで全身震えながら頭が痛い、背中が痛いと呻く夫を見て、私はその時初めて、夫は取られるかもしれないと思った。結婚生活30年をともに歩み、互いに闘い、狐と狸のバカし合いで生きてきた我らが、共に語ることができなくなるというのか!?足元を救われる思いに襲われ、私も微かに震えがくる。神さま!まさか夫を取られるのですか?私たちは生き急ぎ過ぎたのでしょうか?人の何倍も旅行をし、もう十分だとおっしゃるのですか?日頃から無神論者であることをうそぶく夫のその口を、あなたは取られるのでしょうか?神さま、こんな不敬虔な夫を助けてくださるでしょうか?唯一のよすがは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたと家族も救われます 使徒16:31」だけだった。夫の病状はインフルエンザでもなく、医師も、これはウィルス感染か何かとしか言いようがないとの診断。年末年始の休日に入ってしまった病院に、とりあえず入院させてもらうことになった。点滴をして熱が下がり、数日ぶり起き上がり「腹減った」とパンをむしゃむしゃ食べていた。夫の命はつながった・・・感がした。命が取られる恐怖は遠くなった。神に感謝。

大みそかを迎え、夫の病院に通いながらも、いつ退院してもいいようにお正月の準備は着々としていた。昼は落ち着いていたが夕方様子を見にゆくと少し様子が違う。点滴で下がった高熱が再びぶり返したのか・・・お見舞いは20時までだった。紅白歌合戦を見ながら、彼はどうしているのか・・・心配で22時過ぎ病院に行く。これもまた胸騒ぎだったのか・・・病院は固く締まり、病院からも連絡もないし・・2015年を迎え、疲れ果て私はそのまま爆睡した。その時夫は大変な状態に陥っていた。メールが届いていた。
1:27多臓器不全が始まっているみたいだ。明日は肺がやられそう・・・
1:28下半身が麻痺。動かすのもままならない。この状態では後遺症は残るだろう。現在尻も麻痺した。腹部も当然麻痺してきた。明日も症状が進めば覚悟が必要、大袈裟だが手が動くうちに。
1:28 30年間ありがとう。幸せだった。
4:15 落ち着いています。考え過ぎでした。心配ありません。奏楽頑張ってね。

間抜けな私はこのすべてを起きてから読んだ。夫は夜勤の医師に抗生物質をもっと投与してくれと怒鳴ったらしい。とにかく、抗生物質の大量投与でウィルスは夫の脳の方へ行かず、下半身だけに降りていってくれた。命拾いした夫だが、下半身が全く動かなくなっていた。子ども孫と一緒に初日の出を見た後夫の病院に行く。神に感謝!ぼんやりした安堵感で満たされたが下半身が動かないということがどういうことピンときていなかった。元旦礼拝の奏楽の奉仕についていた私は、とりあえず心を落ち着けて教会へ行った。

1/5の診察開始を心待ちしていたが、肝心の整形外科医は、夫を診察し「ふ~~ん」と言って終わりだった。絶望感と不信感に襲われる。救ってくれたのは翌日慈恵医大から出向している脳神経内科の医師で、このままではいけないと、慈恵医大を紹介してくれた。
1/7慈恵医大への転院が決まる。寝返りも打てない夫は、天井を向いたままストレッチャーに乗せられて、介護タクシーで転院する。熱と痛みは続いている。脳神経内科の入院となった。慈恵医大に救われたことで安堵が広がる。神に感謝!

1/8 夫が楽しみにしていた歌舞伎の日だった。夫の希望で夫の代わりに友人を誘って見に行った。終了後その足で病院に行き、歌舞伎の報告をしようとするが、何と、脊髄の手術をすることになっていた。夫の病名がはっきりしてきた。脊髄膿瘍(せきずいのうよう)と言って、ウィルスの死骸が膿となって脊髄にたまり、神経を圧迫しているというのだ。脊髄の9番・10番が詰まっているので切開して膿を吸い取るとのこと。本来は発症後48時間以内の手術が必要だそうだが、夫の場合すでに8日が過ぎていた。刻一刻を争うという。手術は夜8時から始まった。私は歌舞伎からの帰りのままだ。夫は「歌舞伎どうだった?」と明るく尋ねるが不安で押しつぶされそうなのか、男泣きに泣く。しかし解決の道へ向かっているのだ、との強い気持ちで手術までの時間を明るく過ごした。緊急の手術のため、諸問題があったがそんな不安は心から払拭し、すべてを神と医師にお任せした。誰もいない深夜の待合室で、徹夜で手術をして下さる医師のことを思い、夫の命の強さを願い、じっと待った。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。  詩編51:17」砕かれたたましいであなたの前に出ている私だが私をそうさせる犠牲になっているのが夫だと思うと可哀想でならなかった。

手術はすべて守られて無事に終了した。無事を願って、信じて疑わなかったが、本当に実現したことが夢のようだった。それでもICUには手術の痛みと、当初からの背中の痛みとで、苦しむ夫がいた。なすすべもなく、私は明け方帰宅した。
全く麻痺した下半身に加え、術後の傷のため、全く動けない苦しい日々がしばらく続いたが、回復のためのことと、夫は忍耐していた。10日ほど経って背中の抜糸をし、車椅子に移って動くためのリハビリも開始されたころ、検査でまだ脊髄が詰まっていて神経が自由になっていないことが判明。再び急遽手術となった。1/19のことである。この日は前回よりもっと劇的?だった。孫の虫歯が痛くなり、夕方歯医者へ急行していた。その後帰宅して夕食の支度をしていたが、夜のお見舞いの時間になってしまい、夕食の支度を中断して病院に行った。午後8時、お見舞い終了の合図で帰ろうとした時に、医師より呼ばれて手術の決定を聞かされた。夫は治るためやるしきゃないだろう・・と気丈に語ったが、またしても涙がこぼれる。不安で押しつぶされそうな夫だった。この日は手術決定が午後8時。手術は午後11時から。終わったのは朝だった。何時間が経過しているのかもわからない、静かな真夜中の待合い室だった。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。詩編46:1」
麻痺した下半身が動きだすために、前向いていくしかないだろう・・・と淡々と耐えていた夫が絶望に陥ったのは2回目の手術の後だった。術後も全く足が動かない・・・といらつき、無口になっていた。医師の口調も多少不安げだった。私には回復への希望を捨てない忍耐しかなかった。

そんな日が打破されたのは1/23。「足がちょこっと動いた」との夫からのメール。短いこのメールで私はルルルルルル~~~と幸せで満ちてしまった。ようやく夫の足の神経が動きだしたのだ!

寝たきりから車椅子に移って(看護師2人がかりで移る)、上半身を起こす夫を見るのだけでも嬉しかった。夫も車椅子に乗せてもらうと、嬉しくて病院内をいろいろ散策しているらしかった。リハビリはどんどん進められていた。最初は器具に体をしばり、寝た状態から少しずつ立った状態まで角度をあげて立つ練習をする。立ち上がった夫を見るのも新鮮で嬉しかった。しかし寝たきりが続いていたので頭を起こすだけで血圧が下がり、リハビリ中止のこともあった。平行棒の間に立ち上がって、足を一歩出す練習もしていた。感動に震えたものだが、足を一歩も出すことができず、涙ぐむ日もあった。一歩が出て、二歩が出て、平行棒の間を歩ききれた時など、拍手喝采である。とにかく夫の体が動いてゆくことが、すべて嬉しくてたまらなかった。が今思うと、泣けてくるくらい何もできなかった。でもその時はどのレベルでもただ感激と感謝しかなかった。

ようやく熱と痛みから解放され、抗生物質の点滴をはずしたのは2月。慈恵での入院は40日になっていた。リハビリ病院に移ることが決まった。2/16に守谷にある会田記念リハビリテーション病院に転院した。慈恵の医師は2カ月くらい頑張ってもらって機能回復しましょう・・ということだったので4月には退院との心づもりだった。リハビり病院では朝は服に着替え、病人でない生活をしてもらいますという方針だった。普段着を着る夫も久しぶりで新鮮で、また大きな勇気となった。感謝である。

しかし2カ月で歩くことができないことは本人が一番知っていた。最初の頃私には時がくれば自然に歩き出すような漠然とした思いがあったが、現実は地道な訓練による機能回復しかなかった。リハビリ病院に入院できる150日を夫ははっきり認識していた。150日しかないんだ。退院は7月だ。夫のリハビリ生活が始まった。日本のリハビリ病院の方針は残された機能を使って、自立した生活ができることを目標にしている。そのため、歩くためのリハビリなのに車椅子の練習をしたりすることのジレンマにも陥っていた。しかし現実の厳しさに夫も納得せざるを得なかった。4月には原因不明で再び高熱が出、夫は精神的に参ってしまった。抗生物質の投与で回避されたが原因は特定できていない。その時は1週間ほどの足止めとなったが、再び日々リハビリに精をだし始めた。その頃、すばらしい神さまからのご褒美もあった。息子の結婚が決まり、両家の顔合わせがなされた。2月に予定していたものが夫の病気で延期されていたのだが、この日までに夫は車椅子から自動車に乗り移る練習をし、排泄も通常に戻ることができ、背広を着て、車椅子に乗って会場のホテルで顔合わせに平然と臨むことができたのだ。私も2015年になって初めて着物を着た。

結局150日の入院によって、2本の杖での歩行・1人での入浴・排泄機能の回復で退院することができた。7/15病院の庭に咲く美しい百合の花と、150日の入院でお世話になったすべてのスタッフさんに暖かく見送られて夫は退院した。定年と同時に嵐のような運命に翻弄されてきたかと思っていた。しかし、これはいったいどうしたのだろう。最初は文句ばかりだった夫が病院のスタッフさんとそれは楽しそうに嬉しそうに接している。退院後もリハビリに通院しているが、皆夫を見ると走り寄ってきてくれる。この嬉しい出会いをどう説明したらいいのだ。畜生、畜生と苦しみながら泣いていた夫が、両下肢麻痺という2級の障害者手帳をもらった夫が、7か月の闘病後言った「俺は何かもかも失ったように思えるかもしれないけど、何も失っていない。」と。そして退院後は時々教会に拝みに行く。健常だった時、「地獄に行くからほっておいてくれ・・・」とうそぶいていたのに、地獄で「治りたい!苦しい!助けてくれ!」と懇願してしまったのだそうだ。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。詩編103:2」

しかし退院が終わりではなく、新しい試練の始まりでもあった。退院1週間後救急車を呼んだ。足の痙攣がひどく本人がパニックに陥ったためだ。調子が悪くなると歩けなくなり庭の階段を下りる手段がなくなってしまう。慈恵の診察で膿瘍が悪化していないことを確認し、パニックも収まり夜中帰宅した。それから1週間後、7/30今度は熱中症なのか、高熱に襲われた。脊椎損傷患者は体温調節機能が失われているため注意が必要なのだ。また救急車のお世話になった。熱中症と尿路感染症とのことで1週間の入院となってしまった。その後安定していたが9/10に再び高熱。尿路感染症対策をとったことで鎮静する。それ以降は遅々たる歩みながら病人から脱却しつつあり、現在まで平安な日々を過ごせている。

夫は現在家の中での両杖の歩行に加え、キャスターつきの椅子での自由な動きを確保し、自分で動ける範囲に自分の持ち物を移し着々と自立した生活と、失っていた2015年を取り戻すべく行動している。また江東区木場にある脊髄損傷患者専門のトレーニングジムに通って、歩行を取り戻すべく訓練に励んでいる。それは入院中に見た記事「大相撲の尾車親方が、頸椎損傷の寝たきりから、訓練で歩き出した」によって、その存在を知った次第である。そのジムに来ているクライアントはすべて脊椎損傷患者である。一生歩けないという状態を一時は受け入れ、涙の海を乗り越えている。そして彼らはすべて前向きで、やる気にあふれている。そんな環境に置かれた夫は、またもや元気をもらうことができている。夫は足の筋肉もそのままだったし、各場所が動く。自分の力で立ち止まっていることもできる。(夫は神経の連絡がうまくいかず、バランスが取れないので手放しでは一歩も歩けない)人も羨む?この状況で歩けなかったらトレーナーに申し訳ない・・・と日々頑張っている。発症以来地獄の入り口から這い上がって来たような感覚もあったが、こんなにも恵まれた状態だったかと気づかされている。そしてトレーニングジムのスタッフ・クライアントの方との出会いもまたすばらしいのだ。溢れるほどの感謝なのだ。

我らは、まだ途上にいる。ハッピーエンドの物語でもない。また試練が与えられるかもしれない。
でもずっと前を向いて来た。私は涙の一筋も流さなかった。ただ神に期待し、信じてきた。
でも振り返ってみれば、その時の状況は号泣したいほど悲しくせつない。
ずっと神が一緒にいて下さった。
期待していた通り、神さまは夫をここまで導いて下さり、守ってくださった。新しい目標を下さった。
神に感謝。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28」






2015年を想う_c0134850_040447.gif
草の花のHPもどうぞ

2015年を想う_c0134850_11302169.jpg

我孫子福音キリスト教会HP
Commented at 2016-01-01 01:20 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kusanohana-nonchi at 2016-01-01 22:31
yumiさま
あけましておめでとうございます。
今年はこの言葉を心から言えることが
うれしく感じられます。
いつもおつきあいありがとうございます。
信念というほどたいしたものではないですが、
やっぱりつらい時にはね・・・

春からご実家に・・・というニュアンス。
我が家もそうでした。転勤で実家から30Kのところに住むようになったことをきっかけに、父が実家を立て直しました。夫は納得していないまま私と犬が実家に移りました。夫はしばらく単身赴任のような生活をしてました。家族に対する負い目・・・そうですよね・・・でもお父さまのこともあるわけだから、ご家族はきっとわかってくださいますよ・・

YUMIさん推奨の九死に一生シリーズネタが二つも発生してしまいましたよ~~新年早々あんまりなので、もう少し経ってからご披露しま~す。
by kusanohana-nonchi | 2016-01-01 00:05 | 日々のつぶやき | Comments(2)