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一粒の麦

1月4日(日)
「一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネによる福音書12章24節


この聖書のたとえが今日の話に当てはまるかどうかはわからない。
しかし、私の頭にはこの言葉が、一日こだましていた。

昨年12月、私の教会のある老婦人が亡くなった。
私は所属して間もないので、1度だけお話したことがある程度の関係。
突然に亡くなったということだった。
驚いたのは、その方の葬儀が行われなかったことだ。
(これらの話は、すべて世間話程度の情報しかないので、ご了承を)
火葬場の霊安室に、冷蔵庫のようなところのひつぎに納められて
教会の古くからの友人が賛美歌を歌って、お別れしただけだったという。

家族は、息子さんが一人。
その息子さんの家庭内暴力の悩みから教会につながったとか。
息子さんと言っても、もう中年だろう。
一体、何が何で、葬儀を行わないということになったのだろう・・・・
本当に驚愕のできごとだった。

それから1ヶ月後、
その息子さんが、教会の礼拝に参列された。
一番関係が遠いはずの私でさえ「え~~」と驚きでその方を凝視した。
やはり、息子さんと言っても、充分なおじさんである。
教会の最古老の婦人から「説明して欲しい。私たちはショックだった。」と
厳しい語調で質問が投げかけられた。
彼は、なぜか、教会あての手紙を書き、
その手紙を投函せずに、自身で教会に持ってきたという。
そして、自分の母親の死亡に至る経緯を読み始めた。
それなりに良識ある、普通の内容の話が続く。
火葬場で、お別れの会をして見送った、ということだった。
私には特に悪意があるわけでもなく思えた。
ただ単に、葬儀をする費用がなかっただけなのか。

いろいろな人生があるものなのだ、と強く感じさせられたできごとだった。

しかし、今日の礼拝に行って驚いた。
その息子さんが、礼拝に参加している。
しかも、聖歌隊の練習に参加していた。
何だこりゃ・・・・

その老婦人が、息子で悩んで
そして、亡くなって、
その息子の手によって、満足な葬儀を出してもらえなくとも、
その荒れていた、息子が、教会に来ている。
たった1回だけのことかもしれないけれど、
教会に足を踏み入れるという一歩は大きい。

自分の死が親族の信仰の種まきになるという・・・・
この一粒の麦のたとえ話が、真実になったのを見た、今日のお話。
by kusanohana-nonchi | 2009-01-04 23:58 | 聖書の言葉 | Comments(0)