つながった記憶

5月8日(木)
物心がついて、私の中の初めての記憶の絵がある。
2才から3才にかけてのこと。丁度、今の孫の年齢になる。

その頃住んでいた3階建ての建物の窓から中庭を覗いた
あのちょっとこわかった風景。
そして、暗いトイレにあった、青い陶器のスリッパ・・・それもこわかった。
生まれた妹が、3階の階段から下に落ちないように、見張っていた。
引越しの朝、トラック(三輪車)がやってきて、その顔がこわかった。

そこは、旧家の親類の家だった。
その頃、父は大阪での事業に失敗し
(詳しい事情は微妙に違うが、まあ、そんなもの)、
家族を連れて、埼玉の川越の実家を頼って戻った。
その時私は2才くらい。母は臨月だったらしい。
継母がいた父の実家では、臨月の嫁を快く思わず、
体よく追い出したらしい。
そんな哀れな親子を救ってくれたのが
遠縁の、しかも直接は血のつながらない、旧家の後妻さんだったそうだ。
(なんか、いかにも、昔の物語って感じ)

そこは、私の祖父の生家だった。
その時は、祖父の兄夫婦が住んでいたのかなぁ?
わが家族は、その家に住まわせてもらい、
母もそこで妹を出産。
身内は冷たく、血のつながらない人に助けられた、と
母はずっと語っていた。
2才の私は、その家からの記憶が始まる。

さて、その家が、現在、埼玉県ふじみ野市の「福岡河岸記念館」として
一般公開されているのだ。

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長く、回船問屋として商売をしてきた星野家だが
曽祖父の10代目星野仙蔵が、篤志家で、
衆議院議員になり、東武東上線をひくのに尽力した。
が、その代で家業がつぶれてしまった。
祖父たち兄弟姉妹はすべて外に出され、祖父も婿養子に出た。

私たちは本家と呼んでいたが
私たちが住んだ頃はもう落ちぶれていた状態だったわけである。
それでも大きな家だったので、何家族かが住んでいたらしい。
その後、あちこちを切り売りして、解体寸前だった家が
更に、相続問題でこじれたため、とうとう上福岡市(現在はふじみ野市)に
寄付をする、という相当賢明な方法で解決させた。

と、いういきさつがあって、
先週、5月3日、河岸記念館の訪問が実現した。
記念館がオープンしてから10年は経過していると思う。
40数年が経過して、私は初めて訪れたわけである。
私たちが住んでいたのは、星野仙蔵が泊り客のために建てたという
3階建ての離れであった。その3階に住んでいた。
現在3階部分には、立ち入りできなかったのが残念ながら
私の記憶にある3階だての部屋から見た、中庭の構造は認識できた。
(河岸記念館のリンク先には、その3階に人がいるのが写っている)
3階を見ていただくと、部屋のまわりが廊下なのが見える。
あの廊下は覚えていた。
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そして、この写真は1階にあったトイレのスリッパである。
こんな陶器のスリッパが備え付けられていた。
これぞ、まさしく、私の記憶にあったそれである。
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すごい体験だった。
旅行先で、数多く、一般公開されている旧家を尋ねているが
自分が住んだことのある家が、記念館として公開されているのは
懐かしさ・妙な誇り・そして、つながった記憶といい・
一言では言い尽くせない思いだった。

この記念館には、この建物の寄付者として我が一族の名が記されている。
父の名前もある。
ついでに言うと、父の相続で、
私たち姉妹もこの近くにある中途半端な土地を相続することになった。
行ってみたら、2本の道の交差するすきまのような土地で
その土地が10人の共同財産になっている。
何をするにも10人分の印鑑が必要というやっかいな代物。
by kusanohana-nonchi | 2008-05-08 22:42 | カルチャー | Comments(0)