大き過ぎて恐ろしくなる話

8月25日(月)
キリスト教って、何となくすてき、と思う。
私の信仰の原点なんて、そのレベル。

しかし、その教義・・・宗教的な考え方?といういうものは
どれほどわかっているのものなのだろう。
もちろん、仏教のことだって知らない。
葬儀の時に、お坊さんが最もらしくいろいろ辻褄合わせしているのを
聞くぐらい。
イスラム教のことは、もっと知らない。

キリスト教で、最も大切なキーワードは「罪」。
人間が生まれ持っている「罪」を
イエスキリストが十字架にかかって死んだことで
すべての人間の身代わりになって、許してもらった、ということ。

絶対誰でも、ひっかかっていると思うけれど、
「罪」なんて犯してないんだから、関係ない。という気持ち。
まず、自分の存在自体が罪なんだ・・・
という苦しみを味わっていない人生の人には、全く意味がわからない。
あ~~ここで、こんな風に語るには、軽すぎる。
とにかく、私は自分が素晴らしい、私は絶対何があっても大丈夫・・・
という恐ろしいほどの傲慢な生活の果てに、自分の愚かさに気付いた感じ?
「罪」というのを犯罪と考えると、間違う。

昨日のメッセージ(三木貞夫牧師)で
キリスト教・ユダヤ教の原点を思い起こされた。

もともと、ユダヤ教では、神へ、羊をいけにえとして捧げて
神からの怒りを収めた。
この羊・・・をイエスキリストに置き換える。
自分の言う事をきかない勝手な人間たちを怒った神への
怒りを静めるために、
イエスキリスト(神の子として、人間の姿をして生まれてきた)が
いけにえとなって、捧げられた。

その教義にの上にあるキリスト教。
遠く、ユダヤで起きたそのできごとによって
私たちも、「信じます」と言えば、赦される。
気が遠くなるほど、大きい話だ。
ほんとかいな・・・
このことに言及すると、私は自信がなくなってくる。
そのへんの、お地蔵さんに、何となく有難がって手を合わせている方が
日本人には絶対合っている。

ああ、だめだ、だめだ。不信の私。
唯一の拠り所、聖書には、異邦人(ユダヤ人以外)すべてを救おうとする
キリストの言葉がある。

すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

私の信仰は、見えないものを探す旅?
[PR]
by kusanohana-nonchi | 2008-08-25 11:26 | 聖書の言葉 | Comments(0)